こんにちは!りっきー塾長です。
さてみなさん、社会生活の中できちんと「怒りをコントロール」できていますか?
・・・何をいきなりエラソーに!??
はい、エラソーに質問した私は何を隠そう、社会人生活約20年の中で、わりといろいろな人から、ご指導(=怒り)を受けてきた自負がありまして。
そうです。「なんか同じことしても、あたいだけすごい剣幕で怒らるな~~」というやつです。
あなたのまわりでも、そういう人いませんでした?
「同じことを言ってるのに、してるのに、なんかえらい怒られてるな~」という人。
世の中のトレンドや変化が激しく、国際情勢も不安定な時代です。
ましてや今は100年に1度のパンデミックが起き、悲しいニュースも多く流れる中で、ふつうに生きていてもストレスが多い世の中になってしまっています。
会社にいても、指導というよりは不安や恐怖をあおり、自分の足りなさばかりを糾弾してくる上司や偉い人に遭遇したりします。
また一方で若い人たちの中では、あふれる情報や不安から身を守るために、ある意味「シャットアウト状態」となり、社会や他人に興味を示さずに、自分のことだけに集中する人もいます。
そのくせ、他人の言動や行動に無性に「理解できない!」と腹を立て、静かに怒りまくるという、荒々しい内面も同時に持ち合わせていたりします。
「怒り=アンガー」は、放っておくと、どんどん増大していきます。
そして知らない間に、あなたと、あなたの周りの人の心を蝕みます。
そんな中で、自分や他人の“怒りの源”についてきちんと考え、それをうまく対処していく「アンガーマネジメント」は、現代人にとって必須スキルになっていると思います。
今回は社会生活における「怒りのコントロール」について、すこし考えてみたいと思います。
経験から学ぶためには「抽象化」と「一般化」が大切というはなし
私は、ある事象を考える前に、「そもそもそれはなぜ起こる?」とか、「そもそもそれはどこから来るものなのか?」など、対象の起源や由来について考える癖(へき)があります。
さらに目の前で起きている事象を「一度抽象化して⇒無人化してみる」ということをします。
実際に起こったこと、つまり「誰が・何をした/言った」という非常に具体的・俗人的な出来事について、抽象度を一段階上にあげて、「何が・なぜ起こった、それはつまりどういうことか?」ととらえなおしてみる。
私はこれを、「特殊問題(具体的・俗人的)を一般問題化する(抽象的・一般的)」と言っています。
そしてこのプロセスは、自分が経験したことから「キチンと学ぶ」ためには、絶対に必要なことだと思っています。
さて今回、「怒りのコントロール」について考えてみようと思いますが、「一般問題化させる」ために、まず初めに、「そもそも人はなぜ怒るのか?について考えてみる」というプロセスを踏んでみたいと思います。
これは私がいつも実践している「抽象化・一般化」のためのお作法です。
人はなぜ怒るのか?
かなり哲学的な問いになりますが、仕事の場面にフォーカスして、人はなぜ怒るのか?について考えてみます。
最初に私の結論を言ってしまうと、職場での怒りの理由は、「自分が期待した通りに人が動いてくれなかった、物事が進まなかったから」というものがほとんどです。
まあ書くと、当たり前といえば当たり前のことですが・・・
もう一度、この文言を少し分解して書いてみます。
『「期待した」「通りに」「人が動かなかった」』
・・・・
何か違和感を覚えませんか?これ。
誰が?という、「主格」について整理してみます。
「期待した」とありますが、期待したのは誰?
「通りに」とありますが、「通りになってない」と判断したのは誰?
「人が動かなかった」とありますが、人を動かしたかったのは、誰?
何やらイヤらしいものの言い方になってしまっていますが、、、
そう。これ全部「自分が」「勝手に」「させたかった」ことなんですよね。
まあ「勝手に」という表現は、すこし言い過ぎかもしれません。
依頼されたほうだって同意したじゃん、とか、そもそも俺は上司だから部下が言うこと聞いて当たり前だろ!とかいうツッコミも聞こえます。
しかしそういう「俗人的な背景」を取り除いてみてみると、、
怒りの原因は、すべて自分。
自分が勝手に作り出したものだと気づくんです。
だって、人に勝手に「自分が思うように動けと期待した」のは、自分ですよね。
さらに「期待した通りに」というのは、暗に「期限内に、満足いく内容で」という文脈が含まれています。
またもっと深堀りしてみると、明確には言っていないしどこにも書かれてもいないが、「しかるべき態度と謙虚な姿勢で」なんていういわゆる内面(ハート)の部分まで、ついでに期待していたりします。
そして、「自分が思い描いた『まさしくその通り』」に、人がそのまま動いてくれることを期待する。
そうじゃない場合には、「なんでやっていない!」という怒りが湧いてくる・・・
自分の、自分による、自分のための怒り
「怒りの感情」には必ず、相手を責める「責め心(せめごころ)」がマンマンに含まれています。
「私がこんなに準備をしたのに、こんなに苦労をしたのに、こんなに考えているのに、なのに、あなたは〇〇が足りない!!」
しかし、相手はあなたの苦労や歴史・背景を100%理解しているとは限りません。
いや、人間というもの、職場ではみな忙しく、ただでさえ自分のことで精いっぱいなのに、他人のあなたが何をしてきたか、どういう背景を抱えているかなんてまで、とても気が回りません。
というか「そんなん知ったこっちゃない」んですよね。
誰だって忙しい!!自分のことで精いっぱいなんだ!!
そんな「文脈も背景もマインドも全く違う」他人に、「自分が思ったように動いてもらいたい」と思っている。
それが叶わないとなると「怒り」の感情がフツフツと生まれる。
そうなんですよね。
人間の怒りって、かなり「自分勝手なワガママ心」から生まれる感情なんです。
だから常に怒っている人って、つねに「自分勝手なワガママ」を相手に押し付けている人なんですよね。
「目指すべき理想と目標が高く、常に努力をしていて、会社を成長させようとしているんだ!いつもボケーっとしているお前とは違うんだよ!」
いつも怒っている人はこう言います。(口に出すかどうかは別として)
そして「怒っていない人」を時に「やる気がなく低レベルな奴」と、心の中で切り捨てたりします。
怒らない人、怒っていない人は、アツく反論したり自己主張することが少ないので、「怒っている人・高圧的な人」に言われっぱなしになります。
確かに「怒りの感情」って、人が成長したり、何かに燃えるエネルギーを作るためには、重要で必要なものです。それ自体は否定しません。
しかし別の切り口で見ると、「相手に勝手に押し付けた理想」が原因となっている。
怒りとはつまり、「自分の、自分による、自分のための感情」であり、まったくもって身勝手な感情でもある、とも思うのです。
(英語にすると「Anger of me, by me, for me.」?どこかで聞いたことあるような・・?)
「怒りや嫌悪」は自分の「キライ心・醜い心」が投影されただけというはなし
今度は少し精神学的な側面から「怒り」にスポットライトを当ててみようと思います。
あなたの周りにも、やたらに引っかかる物言いをする人、癪(しゃく)にさわる言い方をする人っていません?
言っていることは別に間違ってはいないが、その人が言うと、どうもなんかモヤっと感が残るというか、なんかいつもイラっとする言い方するよね、というやつです。
そのイラっとする正体とは、精神学的に説明すると、わりと衝撃的な内容だったりします。
その正体とは、「自分も持っているが、自分がイヤだ、キライだと思っているもの」だそうです。
自分の美意識からは、「持ちたくない、排除したい」と思っているもの。
例えて言うと「自分の家にもある臭い物」ということです。(ワカリニクイ??)
それを、自分はできるだけ蓋をして隠して、見えないようにして、悪臭がしないようにしている。
なのにあの人は、それに蓋もせずに、見せつけてくる!ここにあるよ、と言ってくる!
それは「無意識の奥のほう」で起きている
繰り返しますが、自分の中にもあるが、それを「イヤだ、臭い、美しくない」と思っていて見えないように隠しているモノがある。
それを他人がなんとも思わずに見せつけて、押し付けてくる。それが許せない!ということなんですよね。
だから「誰かに執拗に怒られる」ということは、とらえ方を変えると、怒っている人も怒られている人も「似た者同士だ」といえるということなんです。
ただ経験上言えるのは、怒っているほうは、それに気づいている可能性は極めて低いということです。
怒っている人も、なぜ自分がそんなに怒っているのか、自分ではよくわからない。
それは潜在意識の奥のほうで起こっていることなので、きちんと理論的に説明するのは難しいんです。
「自分はとうの昔にそれを捨てたんだ!成長したんだ!しかし今のお前を見ていると、昔の、イヤだった自分を思い出す!だから許せないんだ!」という、なにやら自分の過去や経験と結び付けた非常に個人的な怒りを、潜在意識の奥のほうで感じていることがあるということです。
また、これまた厄介なのですが、無意識に「相手に嫉妬」している場合もあります。
「自分はどんなに頑張ってもそれをできない。しかしお前はさらっと言ったり、やったりしやがる。だから、ムカつくんだ!」という感情ですね。
それが本人も知らない無意識のうちに「嫉妬⇒怒り」に変わり、なんか必要以上に怒りが湧いてくる・・・。
人間とは、かくもまあ複雑というか、不完全でやっかいな精神構造を持っている動物ですよね。
「他人のせいで、〇〇のせいで俺はこんなに怒っているんだ!!」
という感情が、実は自分の内側にある「醜い部分」の投影でしかない、という・・・
その自分の醜い部分を完全に捨てきれていない、認め切れていないので、それを他人がすると、無性に腹が立つ、とか・・・
「怒ることができる」と「怒る」は違う
私は昔、上司に「お前は他人に怒らない。だからお前は本気じゃないし、本気で人を育てようとしてない。本気ならば怒るはずだ。そんな奴はオレは認めない!!」と怒られたことがあります。
それを言われて、私自身、ずいぶん悩みました。
「ほとんど怒ることがない私は、仕事をナメているのか?本気じゃないのか?」と。
しかし「怒ることができる」のと「怒る」というのは、まったく別のものだと気付いてからは、ずいぶんと心が楽になりました。
怒らない人は、いや正確に言うと「怒ることができる(Can get angry)のに、あえて怒らない人(Not get angry)」というのは、怒りというものを完全に制御できている、ということなんですよね。
誰が言ったのかは忘れましたが、怒りに関して以下のような格言があります。
怒りを感じない奴はただのバカ
怒りを感じて、そのまま怒るのは浅はかな人間
怒りは感じるが、そのまま怒らないのが本当にデキル人間
ただ「どんな場面でも怒るな」と言っているわけではありません。
人間は感情の動物なので、怒ることもあり、もちろん怒ってもいいのです。
ただ、怒りというものは「不完全な人間が、わりと自分勝手な感情から沸き起こってくるものだ」ということを踏まえたうえで、きちんと「目的をもって、最大限の効果が得られるように加工して怒る」ということです。
特に怒られる側が年下や部下の場合、指摘された内容よりも「怒られた事そのもの、または相手の怒気」に恐怖を感じてしまい、心も頭もストップしてしまうことが多いんですよね。
なんだかんだ言って日本はまだ、儒教の教えが残っている社会です。
クソ生意気に見える若い人でも、年長者、格上の人、上司には、ベースとして敬意を持っているわけです。
そんな人から、エラい勢いで怒られたら、素直でまじめな若い人は、それだけでまあまあビックリするほど凹むというか、ひるんでしまうわけで。
なので上司は、「相手に恐怖を与え頭と心をストップさせて、『オレの勝ち、圧勝!』という感情を得たい、それ以上の目的はない、自分がスッキリしたいだけ」という場合には、頭ごなしに、気持ちよく怒ればよろしい。
しかしそれ以外の目的がメインの場合、例えば相手に気づきを与えたい、考え方をバージョンアップさせてほしい、自分の間違いに気付いてほしいという目的があるのなら、怒りの感情をきちんと加工して、相手が嘔吐しないように調理して、相手に渡してあげる必要がある。
少々面倒くさいとは思いますが、上司や先輩は、親も含めて、きちんと正しく怒りを感じる感性は保ちつつも、相手の栄養になるように「怒りを調理」してあげて、提供できるようにする。
あくまで愛情をベースに、相手の栄養になるように加工して、渡してあげられる人になる。
自分の中に静かな海をつくる
この小題の言葉、私好きなんですよね。
これはとある有名外資系コンサルの人事部長が、中途採用でミドルマネジメント層(部長とか課長クラス)を採用するときに、候補者に求める資質の中で、一番大切にしていることだそうです。
「その人の中に、静かな海のような穏やかな水面を感じられるかどうか」
静かな海のような水面。
心の静けさと落ち着き。
いつもは静かな海も、年中いつも静かということはありません。
嵐が来れば大波になったり、風が吹けばさざ波が立つことがあります。
しかし、それが過ぎれば、やがて波は収まり、また静けさが戻ってくる。
そしていつも穏やかに、空の青を映し、鳥のさえずりをこだまさせ、豊かな自然の調和を生み出し続ける・・・
そんな、心の中に常に「静かな海」があるようなオヤジ(オバサン)って、かっこよくないですか?
私もそんなダンディなオヤジになれるように、日々修行、ですね!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ではまた!
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