こんにちは。りっきー塾長です。
サラリーマンをかれこれ20年近く年続けているワタシです。
そうですね。「転職も起業もしたことがない」ので、どちらかというと地味というか、世の中の社会人の大半を占める「フツーの人」の部類に入ります。
ただ、一度きりの人生、「死ぬ間際に『いい人生だった』」と言うためには、どう生きればいいのか?常に考えています。
私の周りで、転職したり起業した友人の話も踏まえて、今のところフツーの会社員の私が考える、「イヤなら辞めちゃうべきなのか?」論を通じた「キャリア選択」について、ご紹介したいと思います。
人間が死ぬ瞬間の5つの後悔
メメント・モリ
人生を評価するには、まず「死」について考える必要がある、といわれます。
「memento mori(メメント・モリ)」=自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という古代ラテン人の名言ですね。
ウィキペディアの解説によると、
“「メメント・モリ」の趣旨は「 carpe diem(今を楽しめ)」ということ。
「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイス “
ということです。
人間はいつか死ぬ。
だから明日死んでも後悔しないように、今宵は、”飲んで、食べて、陽気に語って踊ろう!”ということですね。
古代ヨーロッパでは、戦が盛んだったため、戦士の男子は、それこそ自分が明日死ぬかもしれなかった。
人生は短い!今日を精一杯楽しんで生きろ!という、力強いメッセージが込められていますよね。
人間が死ぬ瞬間の5つの後悔
話を現代に戻して、2012年に出版された「死ぬ瞬間の5つの後悔」(ブロニー・ウェア)という本では、人間が死ぬ瞬間の5つの後悔について、以下のようにまとめられています。
今は「働き方改革」全盛の時代ですが、この5つはすべての働く人にとって、ハッとさせられる言葉ばかりです。
1つ目の「自分に正直な人生」、2つ目の「働きすぎを後悔」なんて、特に私のような「サラリーマン=企業の組織人」にとっては、ドキッとする指摘です。
油断するとすぐに「他人の人生を生きて」「ふつうに働き過ぎ」てしまうからです。
ただ、多くの人が後悔する「自分に正直に生きればよかった」について考えてみると、そもそも「自分は何がしたいのか?」「何に正直になればいいのか?」について、意外とモヤっとした答えしか持ち合わせていない自分がいたりします。
多すぎて選べない
そもそも学校を卒業する時点で「これがしたい!」と明確に決まっている人はほとんどいないんですよね。
最初は、何となく就職する人が圧倒的多数なのです。
現代は職業の自由がありますが、「職を選ぶ自由が、選択肢がありすぎて、逆に迷う」というのが正直なところだと思います。
これは心理テストでも同様の結果が出ていますが、人間は目の前の選択肢が多すぎると、その中で一つを選べと言われても、選べないのです。
そのほぼ無限に選べる「職業」という選択肢において、今の仕事をどのように考えればいいのか?
フツーの会社員が、フツーの幸せを感じるための「考え方のコツ」について。
私なりの見解を以下にまとめてみます。
何かのご参考になれば、幸いです。
“イヤなら速攻辞めろ”は正解なのか?【正解のときもある】
石の上にも3年?は正解なのか?
世の中「イヤなら辞めろ」系の本が、あまた存在します。
少し前に一世を風靡(ふうび)したTVドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」も、まさしく「イヤなら逃げろ系」のストーリーでしたよね。
一方で、「GRIT」(粘り強くやり抜く力)や「置かれた場所で咲きなさい」という文脈の本もたくさん存在する。
よく言われる「石の上にも3年」の考え方ですよね。
では、どちらが正しいのか?
イヤなら逃げるべきなのか、逃げてもいいのか、それともやはり「石の上にも3年」なのか?
私の現時点の回答は以下ですね。
- やりたいことが特別無いのなら、とりあえず今の仕事を続けながら、好きなことを探せ
- 好きになる工夫を1年間しても全くだめなら、さっさと辞めても問題なし
- 上司や同僚からハラスメントを受けていて、けっこう耐えられないな、という感覚があれば、迷わず相談して、環境を変えてもらえ(それでもダメなら自分から環境を変えてしまえ)
とりあえず縁あって入った今の会社です。
まずは与えられた仕事を、自分なりに深掘りしていくのが、あなたもあなたの周りも幸せになる確率が高いでしょう。
仕事を楽しくするコツは、「自ら工夫する」ことです。
仕事はみずから積極的に「工夫」しないと、楽しくなりません。
人間は、みずから動いて、積極的にかかわって、工夫することで、初めてそれを楽しく感じることができるんですね。
一つだけ気を付けること
ただ一つ気を付けないといけないのは、上司との関係です。
いまだに、ハラスメントしてきたり、無駄にマウントしてくる上司がいます。
運悪くそういう上司にあたってしまった場合、冷静に「いい部分だけ見習お。そのほかの部分は基本スルーで」と冷静に対処できればいいのですが、そういう風にできない場合もあります。
どうしてもムリ、精神がおかしくなりそうという場合は、社内で話を聞いてくれそうな人に、正直に話をしてみましょう。上司の上司に相談するのも手です。
それでもだめなら、社内にホットライン制度がある場合は、ホットな通報をしてしまいましょう。
通報することで、その後で有形無形のイヤガラセを受けるかもしれませんが、そこは耐えましょう。バカマウント上司の下で人生を無駄にするよりは100倍マシです。
それでもだめなら、まあ転職を考えてもいいとは思います。
ただ今の仕事自体は別に嫌いでもない場合、たまたまついたバカマウント上司のために辞めるのも、ちょっともったいない気もします。
周りを見て、”わりとバカマウント上司だらけだな”と気づいてしまった場合とかは、さっさと会社に見切りをつければいいと思います。
しかしそうじゃない場合、自分がその部署から逃げて、社内の他の職場にエスケープできれば、まずは一番いいのでは?と思います。
「これだけは失いたくない」というものをシンプルに大切にする
この「石の上にも3年問題」にスッキリ答えられる「正解」は無いと思います。
ひとつ私がオススメするのが、「何を捨てられて、何を捨てられないのか?」をシンプルに考えるということです。
「これが欲しい、これを得たい!」という積極的な理由より、「どうしてもこれだけは無理。人生において不用。これを捨てられるのなら、他のことは後悔しない!」という消極的な理由のほうを、むしろ大切しようということです。
世の中、「組織とか上司というものがどうしてもムリ」な人がいます。
そういう人は、最初は無難に普通の会社に就職しても、それはすべて「フリーで生きるための修行と準備」という明確な目的を持っています。
一刻も早くフリーとなり、自由な場所で自由に生きる。
今の時代パソコン1台武器に、ネットで生きるブロガーやアフィリエイターとかふつうにいますので、これは別に無理な選択肢ではありません。
また、全国展開の大企業に就職して「転勤族」になったが、やっぱりどうしても生まれ故郷の地元に戻りたいという人もいます。
実際私の周りでも、地元の「転勤なし企業」へ転職した人が数人いました。
また、東京に残した彼女が好きすぎて、離れて暮らすのが我慢できずに、自分が会社を辞めて転職して、彼女と暮らすという選択をした20代の男子もいました。
どの人も、辞める前に仕事が決定的に嫌だったとか、そういうことはありませんでした。
どうしても捨てられない「大切なモノ・人、失いたくない時間」を一番大切にする、というシンプルな選択をしただけでした。
「前向きで後ろ向き」なジョブチェンジもアリ
世の中「したいこと、好きなこと」が無いと、職を変えてもうまくいかないなんて言われます。
巷でよく聞く「意識高い系の前向き姿勢」の転職ですよね。
しかし、私のまわりの「どうしてもこれだけは失いたくない」ことをシンプルに大切にした彼らは、いずれも会社を辞めていきましたが、別に人生を後悔しているようには見えません。
「前向きに後ろ向きな」選択というのも、全く問題ナシということですね。
世の中に「正解」はありません。
他人の意見に惑わされずに、「捨てられるモノ」「捨てられないモノ」を自分のアタマで考えて、シンプルに実行に移す。
そういう人生に「大きな後悔」が待っているとは、あまり思えないのです。
美しい「我慢・根性至上主義」?【無駄です】
日本人はまじめと言うか、ある種の「我慢・根性至上主義」が、まだ社会のそこかしこに見え隠れします。
だから「逃げるのは恥」であるし、「沈黙の我慢は美徳」なのです。
私は中高生の時、バレーボール部に所属していました。
時は1990年代前半、まだまだ根性論が花咲いていた時代。
バレー部は野球部とかと比べ、幾分近代的だったものの、それでも「練習中に水を飲むのは禁止」でした。
キャプテンが「水飲みタイム!」と言わないと、決して水分を口にしてはいけなかった。
理由は「のどが乾いたら水を飲むのは、ただの「甘え」と考えられていたから」。
我慢が足りない。強くなるためには我慢が必須!
でもこれ今考えると、日本特有の「まず苦しくないとダメ」という思考停止ですよね。
全く非科学的ですよね。
今ならそれで熱中症になろうもんなら、顧問の先生は一発で「クビ」になります。
日本は天然資源が少なく、戦前も戦後も、物資が極端に不足する時代がしばらく続いたので、当時の国民は「欲しがらない、我慢する」というマインドがある程度必要だったのは分かります。
あれから75年。
経済も科学も、当時とは比べ物にならないほど発展しました。
そのおかげで、日本国民は豊かな生活を享受できています。
しかしまだ「非科学的な我慢の美学」は、社会の(特に中高年男性の)精神的支柱になっています。
過労死とか「死ぬまで我慢して働く」がまだ世の中にあることが、それを証明しています。
海外では全くもって理解できないこの精神性が、日本人なら「ああ、わからんでもない」と理解できてしまうんですよね。
私個人としては、この「我慢主義」って、かなりキライなんですよね。
イヤなもんはイヤ、ムダなもんはムダとシンプルに言える社会を目指したいと思っています。
「置かれた場所で咲きなさい」のその前に
「どこに置かれて咲くのか」が大切
ある仕事で役に立つ、成果を出すためには、もちろん努力は必要です。
しかし「努力すれば必ず花が咲く」というのは、甘いと思います。
何が甘いというと、置かれた後の「メタ認知」と「楽しくする工夫」をきちんとしないと、「ちゃんと咲けない」ということです。
「メタ認知」するために、ここでは簡単に、年収で考えます。
例えば同じ「雇われ(社員)」という立場でも、非正規社員で年収1,000万円はかなり難しいですが、大企業の正社員なら、ある年齢になると、わりと普通に達成できたりします。
仕事がそれほどできなくても、成果を上げ続けられなくても、1,000万円プレイヤー維持はわりと難しくない人がいます。
まあそういう人は、学生時代にはきちんと勉強して、それなりの学歴を持っていたりるすのですが、要は「どの場所で置かれるか」で、年収で見ると圧倒的に不利な立場になることがある、ということです。
実際に私が適応障害になった話
自分と合わない上司とか、わりとブラックな上司がいる組織で働き続けると、ココロが病む確率がけっこう高くなります。
実際に私も、30代中盤で「まあまあなブラック上司」の下についたときに、もれなく心を病んで、2か月ほどまともに会社に行けなくなった経験があります。
その時はもう八方ふさがりで、とにかくここから逃げたい、という一心でした。
でも一方で「家族がいて、会社辞めても他にやりたいこともないし・・」などと、病んだ心で考えていたことを思い出します。
でも当時、「会社を辞める」という発想にならなかったんです。
正直なことを言うと、「こんな、たまたま上司になった奴のために、なんでこっちが辞めないかんのや。アホらしい。もし辞めるにしても、もっと違う理由で辞めるわ。」と思っていました。
辞めるにしても、「コイツのせいで辞める」というのは、なんというか、「理由として価値が無さすぎる」という感覚です。
その時の症名は「適応障害」でした。
これは、障害が無くなると、スッと良くなることが多いという病気です。
実際その後、私が転勤をして、その上司とはオサラバしたのですが、その後は、けっこう短期間で普通に戻りました。
逆に同じ社内でも、「部下の才能を引き出して伸ばすのが趣味」という、コーチのような上司に恵まれた場合、あなたの人生は大きく開く可能性が高くなります。
よく「上司は労働条件のすべて」と言われますが、本当にそうだなと再確認させられた体験でした。
「ここはどういう場所なのだろう?」と疑う「メタ認知」
つまり、「置かれた場所で咲く」ためには、「どこに置かれる」のかが大切だ、ということです。
若い人は常に「自分の置かれた場所が、どういう場所なのか?」をいろいろな角度から分析することをおススメします。
自分の会社は世の中にどういう価値を提供しているのか?
自分の部署は、社内でどういう役割を担っているのか?社内でどういう評判の課なのか?
自分の上司は何を大切にしていて、それはなぜか?
また他の上司と比べて、どう違うのか? 社内での上司の評判は?・・・などです。
こういう「自分の職場に対しての認知を、客観的に見つめる」ことが大切だと思います。
職場を「メタ認知」で分析してみる、ということですね。
メタ認知とは、「自分の認知・認識を客観的にとらえなおす」ということです。
そうすると、客観的な「自分の立ち位置」というものが、見えてくる。
今までは「自職場が全て」「上司の言ったことが全て」だと思っていたが、違った景色が見えてくる。
その「メタ認知(客観視)」の上で、置かれた場所で咲く努力をすることが必要だと思います。
そしてメタ認知で眺めてみて、「なんか違うな。自分の人生、これじゃない気がする」ともし気づいてしまったのなら、準備をすればいいだけです。
環境を変えるための準備ですね。
それは必ずしも「会社を変える」に限るものではなく、部署を変える、自分のキャラを変える、副業の準備をする・・いろいろあります。
置かれた場所で咲く努力をしながらも、「この場所はどういう場所で、私にとってどういう意味があるのだろう?」とメタ認知で考え続けること。
これが、自分のメンタルヘルスにとっても、自分のキャリアにとっても、とても大切だと思うのです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ではまた!
コメント